◇甘く蕩けるようなキスは二人の失っていた時間を取り戻すかのように心に沁みて、そっと唇が離れた後も余韻が残っている。お互い顔を見合わせると、照れながらふふふと笑った。「ずっと好きだったんだ。だから春花に彼氏がいてどうしようかと思った」「私もずっと好きだったの。でも桐谷くんは雲の上の人だからあきらめてたの」「そんないいものじゃないよ」「ううん。すごいんだよ。……桐谷くんこそ彼女は?」「彼女?」「フルート奏者の人。芸能ニュースで見たよ」「ああ……。打ち上げがあって帰り一緒に帰っただけ。彼女でもなんでもないよ」「そっか」春花は胸を撫で下ろした。ずっとモヤモヤしていた気持ちは、静自身の言葉によって霧が晴れていくようにすっと引いていく。自分はまだここにいていいんだと安堵した。「だからさ、春花は出ていかなくていい。一緒に暮らそう」まるで心を見透かしたような静の発言は、春花の心臓をドキッと高鳴らせる。夢を見ているかのような展開に信じられない気持ちでいっぱいになり、春花は静に訴えた。「私の頬っぺたつねって」「ん? こう?」「……痛い」「えっ、ごめんっ! そんな強くつねったつもりじゃ……ごめん、大丈夫?」言われるがまま春花の頬をつねった静は、慌てて手を引っ込める。オロオロとし出す静に、春花は声を上げて笑った。「あははっ! 痛いから夢じゃないね!」「夢じゃないよ。驚かせるなよ」静は困ったように笑い、優しく春花の頬を撫でる。温かくて優しい手つきに、春花はうっとりと身を委ねた。「もう一回キスしていい?」「うん」甘く微笑んだ静に胸をときめかせながら、春花はゆっくりと目を閉じた。窓から差す木漏れ日は暖かく二人を包んでいるようだった。
穏やかに過ごしていたある日の閉店時、店長の葉月が春花にそっと耳打ちした。「山名さん、あの人知り合い?」「え、誰ですか?」「ほら、あそこ。さっきから店の前でスマホ触ってる男性。ちらちら店内窺ってるみたいなんだけど」ショーケースの陰からそっと覗いた春花は、その人物を見て一気に青ざめた。くらりと目眩さえ覚える。ドキンドキンと心臓が痛いほどに脈打ち、思わず胸元をぎゅっと押さえた。見間違えるはずがない。春花の元彼の高志だ。高志が店の前で待っているのは、明らかに春花であろう。別れを告げアパートを追い出されてから、高志とは連絡を取っていない。いや、正確には鬼のように着信はあったし、メッセージもひっきりなしに入っていた。着信拒否やブロック、そしてアパートの解約。モラハラ高志と決別するための手段は講じてきたつもりだった。「店長すみません。えっと、私の……元彼です。あの……、ちょっと話をしてきます」震えながら出入口に向かおうとする春花の腕を、葉月は慌てて引き寄せた。「待って。元彼が何の様? もしかして付きまとわれてるの?」「いえ、初めてです」「変に近づくと危ないわよ」「だけどきっと私に用があるんだと思います。あんまり良い別れ方、していないんです」「だけど山名さん、震えているじゃない。私が引き付けておくから、今のうちに裏から帰りなさい。あ、家もバレてる? よかったらうち来る?」「いえ、最近引っ越したので、家はバレてないと思います」「そう? それならいいけど。じゃあちょっと早いけど先に上がって。裏から出るのよ」「本当にすみません」「いいからいいから、ほら、早く。何かあったらすぐ電話するのよ」「はい、ありがとうございます」葉月は春花に何か指示するようなオーバーリアクションを高志に見せつけると、春花を裏口へ追いやった。
非常口である裏口からそっと外へ出た春花は、店の前を避けてそのまま駅まで走った。後ろは振り返らない。とにかく前だけ見て一心不乱に走る。いつどこで高志に気づかれるともわからない。背後から突然呼び止められるかもしれない、もしかしたら掴みかかられるかもしれない。高志に罵られていた日々がフラッシュバックする。会えばきっとまた怒鳴られるのだろう。そんな恐怖に怯えながら、マンションに着くまで気が気ではなかった。「はあっ、はあっ、」「おかえり春花。……どうしたの?」息を切らしながら玄関を後ろ手に閉めると、春花はズルズルとその場に座り込んだ。リビングから顔を出した静が慌てて駆け寄る。「大丈夫?」「……どうしよう」「どうした?」春花は静のシャツの袖をぎゅっと握る。その手がカタカタ震えていることに気づき、静は眉間にシワを寄せた。春花の手を取り両手で優しく包んでから、落ち着かせるように背中をそっと擦る。「落ち着いて、春花」背中を擦る手の動きに合わせて、春花は大きく息を吐き出した。恐る恐る静を見れば心配そうに寄り添ってくれている。静に余計な心配をかけてしまっている。だけど、頼れる人が側にいる。それだけでも以前とは比べ物にならないくらいに心が落ち着き、消えかけていた勇気が湧いてくるようだった。
できるだけ心を落ち着けて、先ほどあったことをゆっくりと話す。高志が店を覗いていたこと。たぶん春花に会いに来たこと。葉月がこっそり逃がしてくれたこと。途中震えてしまいそうになる春花だったが、静は急かすことなく春花の言葉に耳を傾けた。そして一部始終を聞いた静は怒りで震え、腸が煮えくり返りそうになった。大切な春花に身の危険が迫っている。それなのに自分は春花を守ることができなかった。怯えた春花は青白い顔をして今にも泣き出しそうだ。「……ごめん、何とかするから」気丈にも微笑もうとする春花を、静は叱り飛ばした。「そうやって抱え込むな。俺の前で強がったりするなって言っただろ?」厳しくも優しい言葉は、まるで春花を包み込むかのようにゆっくりと心に浸透していく。静に思い出されるのは音楽室での記憶。家庭の事情で音大に行けなくなったと静に告げたあの日、笑ってごまかそうとした春花に対して静は言ったのだ。『俺の前で強がったりするな』あの時だって春花は一人で抱え込んでいた。静は助けたいと何度思っただろう。今はあの時とは違う。大人になったのだから、きっともっと春花の力になれるはずだ。いや、むしろ助けなくてはいけない。「俺が助けるよ」「……でも、どうしたらいいんだろう?」高志のモラハラに耐えて耐えて、ようやく抜け出した道。勇気を出して別れを告げ、どうにか解放されたと思ったのだ。そしてやってきた静との幸せな時間。ようやく掴んだ幸せに亀裂を入れられたような、そんな気持ち。「大丈夫、一緒に考えよう」静は春花の手をぎゅっと握る。静の大きくてあたたかな手は穏やかで心地よく、春花の心を温かく包んだ。
春花を落ち着かせるため、静はコーヒーを淹れる。部屋に広がる香ばしい香り。あたたかなコーヒーをごくんと一口飲めば、静の優しさが体いっぱいに広がっていくような気がした。春花が落ち着いたことを確認してから、静が口を開く。「職場がバレてるのはやばいな。きっとまた来るだろう」「店に迷惑かけちゃう。今日も店長が助けてくれて……」「じゃあ仕事辞める?」「それはできないよ。店としては辞めた方がいいかもしれないけど、私についてくれてる生徒さんたちを見捨てることはできないの」「そうだな、ごめん。浅はかなこと言った。だけど春花に危害が及ぶ方が俺は心配だよ」「高志だってたまたま来てただけかもしれないし、何か私に話があっただけかもしれない」「春花、あいつにどんなことされてたか覚えてるだろ? 会ったらきっとまたその繰り返しだ」「そうかもしれないけど、だからって仕事を休むわけにはいかないよ」春花はたくさんのピアノレッスン生を受け持っている。春花のことを慕って毎週レッスンに来る生徒たちのことを思うと、まったくもって仕事を辞める選択肢は出なかった。一方でやはり高志の存在は恐怖の対象である。今までの経験上、会ったところでまともな話が出来るとも思わないし、そもそもなぜ高志が春花を待ち伏せしていたのか、目的もわからない。仕事を辞めたくない春花と、心配だから行かないでほしい静。お互い言葉は選んで話しているが、二人の話し合いは平行線を辿った。
やがて静が小さく息を吐き、眉を下げる。ふっと微笑んで春花を見つめた。「わかったよ春花。俺が毎日送り迎えする。そうしよう」「でもそんなの……」「迷惑じゃない。俺がしたいからするだけ」「……甘えてもいいの?」「むしろ恋人なんだから、もっと甘えてほしいんだけどな」「えへへ……難しいなぁ」静がそっと頭を撫でてやると、春花はほんのり頬を染めた。恋人に甘えること、そんなことはドラマや漫画の世界でしか見たことがなかった。むろん高志に甘えたこともない。毎日気を遣い高志の顔色を伺いながら生活をしていた春花にとって、他人に甘えるということは安易にできるものではない。甘えようものなら不機嫌になり、その場の気分で怒鳴り散らす高志に毒されていたからだ。そんな春花が高志のモラハラから脱出したいとなんとか正気を保っていられたのは、静の音源があったからに他ならない。静の存在にどんなに癒され助けられたことだろうか。それなのに恋人の静は、春花に「甘えてもいい」と言う。贅沢すぎる申し出に春花は萎縮するが、春花の意を汲み取った静は「いいんだよ」と優しく春花を抱きしめた。暖かいぬくもりに包まれていると、すーっと心が落ち着いていくのがわかる。春花は戸惑いながらも、愛されていることを実感して胸が熱くなった。「ところでさ、春花」「うん」「何で元彼のことは名前で呼んで、俺のことは未だに苗字なの?」「えっ?」「もしかして何も疑問に思ってなかった?」「だって桐谷くんは桐谷くんで、なんか慣れちゃってて……」「俺の名前知ってる? 静っていうんだけど」「し、知ってるよ!」「じゃあそういうことで、よろしく」「……せ、静?」「……」「な、何か言ってよ。恥ずかしいんだけどっ」口元を抑えて黙ってしまった静に、春花は真っ赤な顔で慌てて詰め寄る。「いや……」静は春花からふいと目をそらすと、「……可愛すぎてどうにかなりそう」とぼそりと呟いた。「え、えええ~~~!」お互い真っ赤な顔になりながら、恋人として一歩進んだことに胸をときめかせていたのだった。
◇電車通勤をしていた春花だったが、静の車で送り迎えをしてもらう日々に変わった。助手席に座ると特別感が増す。「ふふっ」「どうした?」「すっごく恋人っぽくて優越感!」「それはよかった」運転している横顔は凛々しく、静の隣にいることが夢のように感じられる。しかも職場まで毎日送迎してくれるのだ。高志の脅威よりも静から与えられる愛が大きくて、春花は安心感でいっぱいになった。あれ以来、高志の姿は確認していない。春花も静も店長の葉月でさえ、防犯面に関していつも以上に気をつけていたが、幸いなことに何事もなく日々が過ぎていった。送迎時は春花が店に入るまで静が付いていく。過保護なまでの扱いに春花は最初遠慮したが、静は頑として譲らなかった。「おはようございます」「おはよう、山名さ……えっ!」たまたま出勤時間が同じだった葉月と店の前でバッタリ出会い、葉月は春花の隣に立つ静の姿を見て驚きのあまり言葉を失った。「もしかして本物の桐谷静……?」「店長、こちらは……」「初めまして、桐谷静です。いつも私のCDを平積みにしてくださっているそうで、ありがとうございます」「え、いえいえ。私、ファンなんです! サインもらえますか?」「ありがとうございます。今日は時間がないのですみません。今度お邪魔するときにたくさん書かせていただきます。じゃあ、春花。俺は行くね。また帰りに」「うん。ありがとう」静は春花にそっと告げ、葉月にはペコリと一礼をして去っていく。その紳士的な背中を葉月はぼーっと見送っていたが、はっと我に返って春花に詰め寄った。「ちょっと山名さん!」「は、はいっ」「本物の桐谷静だった!」「そうですね。本物です」興奮気味の葉月はテンション高く、今あった出来事を思い返しては感嘆のため息を落とす。そんな葉月を見て、やはり静は有名人で人気者なんだということを改めて実感し嬉しくなった。「ところで山名さん。桐谷静と同級生って言ってたわよね?」「はい、そうですよ」「ふーん」葉月はニヤニヤとした笑みを浮かべ、春花は首を傾げる。「ただの同級生には思えないんだけど」「いや、えっと、その……お付き合いしてて」「そうでしょうそうでしょう。それしか考えられないわ。よかったじゃない」葉月は春花の背中をバンバンと叩く。荒々しい葉月の励ましに、春花はほんのり頬を染めながら
数日が過ぎ、静が以前から申し出ていたレッスンの見学が行われることとなった。大歓迎の葉月は自身のCDにサインを貰うだけではなく、店のポスターやポップにまでサインを貰うことに抜かりはない。図々しいお願いでも静は快く引き受け、和気あいあいとした雰囲気で店内がひときわ明るくなった。「まさかうちの店に桐谷静さんが来るなんて!」「ねー! 店長、どんなツテ使ったんですか?」「私じゃなくて山名さんの知り合いなのよ」「えー! 山名さん? すごーい!」「えっと、私が一曲弾く約束で来てもらったので……弾きますね」「えっ! 桐谷静に認められてるの? 山名さん、すごっ!」「あ、あはは……」盛り上がる同僚たちに持て囃されながら、春花はいつものレッスン室とは違う、発表会用のピアノの前に座った。個室になるレッスン室とは違い少しだけ観客が入るような広さの部屋には、静、そして同僚たちがわらわらと集まる。開け放たれた扉の隣は店舗と直結しており、来店する客も自由に行き来することができる。「みんなは静のピアノを聴きに来ているのに、まるで私のピアノ発表会みたい」「そうだよ。俺は春花のピアノを聴きに来たんだから」「本当に弾くの? 私の演奏なら家でも聴けるのに」「家と外では違うだろ?」「そうだけど……」まるでコンサートさながら、ピアノにスポットライトが当たり室内の照明がわずかに落とされた。「さあ、春花」静が背中を押し、春花は緊張しながらピアノの前に立った。ペコリと一礼すると、わあっと歓声が上がる。椅子に座るとザワザワとした店内がしんと静まり返り、春花の身がきゅっと引き締まった。
「ああそうだわ。この機会にあなたに文句を言いたかったのよね。確かにあなたはすごい。この若さで海外公演を大成功に修めた。ピアニスト桐谷静は立派よ。でもプライベートの桐谷静のことを私は知らない。ニュースや週刊紙で報道されてることしか知らないわ。なあに、あの三神メイサとの熱愛報道」「あれは……」「違うって言いたいんでしょう? そうかもしれないわ。だって私の知ってる桐谷静は、間違いなく山名さんを愛していたもの。三神メイサに心変わりするなんてあり得ないと思う。だけどね、その報道を聞いたときの山名さんの気持ちがわかる? それに対してちゃんとフォローはしたの? してないなら、あなたは山名さんではなく、三神メイサを取ったのよ。まあ報道なんてあることないこと書くからね、誰も鵜呑みになんてしないでしょうけど。でも日本で待ってる山名さんには、とんでもなくつらいことだったでしょうね」「そんな……」静は絶句した。春花のことを愛している。きちんと言葉にもしていたつもりだった。けれどそれは本当に春花に伝わっていたのだろうか。もっともっとできることがあったのではないだろうか。春花のことを一番に考えていると思っていたのは独りよがりで、結局ピアノのことが一番だったのだろうか。一番に考えなくてはいけないものを、間違えたのかもしれない。
葉月の葛藤が、静への質問に代わる。「……どうして居場所を知りたいの? あなたたち、別れたんじゃないの?」春花からは静と別れたと聞いている。だからきちんと二人で納得しあった上での別れだとばかり思っていたのだが。静の悲痛な表情に、それは違ったのだろうかと葉月は察した。「別れてなんかいないです。俺が海外に行ったのも春花が背中を押してくれて……」「そっか、あなたたちちゃんと話し合いをしなかったのね。山名さんもバカだわ。なんでも自分で背負いこむんだから。本当に困った子よね」葉月はひときわ大きなため息をつく。辞めると退職届を渡してきた春花のことを、もう少し気にかけてあげたらよかっただろうか。そうだとしても、結果は変わらなかっただろうか。葉月は静をまっすぐ見据えて、事実を述べた。「店の前で事件があったでしょ。その事件のことを嗅ぎまわっているマスコミが店に来たの。そのときは追い返したけど、山名さんは自分のせいで桐谷静に迷惑かけたくない、汚点のない桐谷静でいてほしいって、責任を感じたみたいよ」「春花が汚点なわけないじゃないですか!」「そんなこと私だって知ってるわよ。だけど山名さんの気持ちもわかってあげて。桐谷静を誰よりも応援していたのは山名さんよ。だから自分の気持ちは押し込めて、あなたの背中を押したんでしょうね。それに山名さんの意思は固いのよ。悪いけど、私も山名さんと付き合いが長いのよ。私は山名さんの味方なの」フンと鼻であしらい葉月は仕事に戻ろうとして、もう一度静に向き合う。
何も手掛かりが掴めない静は、春花の勤め先の楽器店を訪れていた。「山名さんね、辞めたのよ」「辞めた?」素っ気なく答えられ、静は思わず語気を強める。自分の元に通う生徒たちを見捨てることができないと言っていた春花を知っているだけに、葉月の言葉はすんなりと信じられなかった。「春花のところに通っていた生徒さんたちはどうなったんですか?」「辞めてもしばらくはレッスンだけの契約で働いてくれてたのよ。でも時間をかけて生徒さんたちにも説明して別の先生に代わってもらって、今はもう来ていないわ」「それで、春花は今どこにいるんですか? 久世さんなら知っているんでしょう?」静は前のめりになる。春花の安否を確認するため葉月に電話をかけた時、「春花は元気だ」と告げられた。何かを隠しているようなかばっているような、そんな態度に違和感を覚えていたのだ。葉月は困ったようにため息をついた。もし静が春花を訪ねて店に来た場合、自分の居場所は知らせないでほしいと春花から頼まれていた。その場では了承したものの、葉月自身それが正しいのか分かり兼ねている。春花と静、二人でいるときの雰囲気は羨ましいほどにとても幸せそうに見えていた。だからこの先もずっと二人の関係が上手くいってほしいと願っていたのだ。
春花の消息を尋ねるには、勤務先の楽器店が手っ取り早い。静はさっそく電話をかけてみる。『お電話かわりました、店長の久世です』「桐谷静です。お世話になっております」『どうかされました?』「あの、春花と連絡が取れないのですが、春花はいますか?」『今日はお休みなの。でも元気だから心配しなくても大丈夫よ』「……あの、春花に連絡がほしいって伝えてもらえますか?」『わかった。伝えておくわね』「はい、すみません」ひとまず春花が無事でいることだけは確認でき、静は胸を撫で下ろす。ただ、音信不通になった理由は未だにわからない。そして葉月との会話にも違和感を覚えたが、彼女の変わらぬ明るい声にそれ以上の追求はできなかった。 どうにか最低限の公演を終え責任を果たした静は、その後に企画されているものはすべてキャンセルして日本に戻った。一刻も早く春花の消息を知りたかったのだ。久しぶりのマンションは、自宅だというのにしんと静まり返りひんやりとしている。まったく人の気配がない。「春花?」声をかけながら一部屋ずつまわるものの、そこに春花の姿はなかった。春花だけではない。猫のトロイメライもいないし、何より春花の荷物がひとつもなかった。まるで最初からその存在はなかったかのように……。「……どういうことだよ?」なぜあの時すぐに帰国しなかったのか。 すべてを投げ捨ててでも帰国すればよかった。「春花、どこに行ったんだよ!」静の叫びは誰に聞かれることもなく、そのまま冷たい空気の中に溶け込んで消えていった。
ピアノを弾くのは楽しい。世界中の人を魅了することは高揚感がありとても気持ちがいい。もっともっと上に行けるのではないかと思わせてくれる。壇上でもらう拍手は何物にも代えがたい宝物だ。だけど足りないものもある。 それは春花の存在だ。一度は失いかけた演奏の楽しさを、気づかせてくれたのは春花だった。いつだって応援してくれるのは春花だけだった。いくら有名になってもいくら賞を取っても、心のどこかで満たされないものがある。それは隣に春花がいないことだ。静はそれにようやく気づいたのだ。静は春花に電話をかけたが留守電につながってしまった。それもそのはず、時差があるのだ。春花とは時間を合わせないと、仕事中だったり深夜だったりしてしまう。静は自分の浅はかな行動を恥じ、また明日時間を見計らってかけ直そうと気分を落ち着けた。だが翌日になっても、大丈夫だろうという時間にかけても、留守電にメッセージを入れても、一向に春花から返事が来ることがなかった。そしてさらに数日後には電話も繋がらない、いわゆる音信不通になってしまったのだ。嫌な予感がした。 いや、嫌な予感しかしない。まさか倒れたとか? また襲われたとか?そんな不安が過る。今すぐにでも日本に戻って春花の無事を確かめたい静だったが、次の公演はもう決まっておりそれを投げ出すとなると多くの人、企業に莫大な迷惑がかかる。天秤にかけるようなことはしたくないが、社会人としての責任感も簡単には捨てられなかった。
◇祝賀会は一部マスコミの入場も許可されており、主役の二人が壇上に上がることになっていた。メイサは自然と静の腕に手をかける。ぴったりと寄り添い、離れるつもりはないようだ。静は振り払いたいのを我慢しながら、渋々そのまま壇上までエスコートしていった。わあっと歓声が上がり、「やっぱりお似合いよね」などという声が上がる。まわりに囃し立てられ気分を良くしたメイサは、ますます静に体をくっつける。「ねえ、私たちもこのまま恋人になりましょう。二人ならきっと素敵な音楽が奏でられるわ」「俺には恋人がいるって言ってるだろ」「何言ってるのよ。これから海外公演が増えるのよ。日本に帰らないのに待っててくれるわけないじゃない。それにあの子、身を引くって私に言ったのよ」メイサの発言に静の思考が一旦止まる。春花とメイサに接点などあっただろうか。「……どういうことだ? 春花に会ったのか?」「ええ。静の夢を邪魔しないでねって忠告してあげたの。おかげで海外公演も大成功よ。感謝しなくちゃね」「は? ふざけるな。俺はもうメイサと弾く気はない」「何言ってるの? これから私たちはもっと有名になっていくのよ。とても栄誉なことだわ」「栄誉なんていらない。俺はそんなもの求めていない」「じゃあどうして海外に来たの? 有名になるためでしょ? 私たちなら世界中に名を轟かせることができる。それの何が不満なの?」「不満に決まってる!」静は吐き捨てると、そのままメイサの元を去った。祝賀会もどうでもよくなった。
抱いていた恋心が数年越しの再会と共に実り、静と恋人になれたことが嬉しかった。 短い間だったけど、一緒に暮らせたことも幸せでたまらなかった。 ずっと一緒にいられたら……なんて考えるだけで未来が明るいようで心が軽くなった。だけど、静の夢を一番に応援しているのも事実。静の背中を押し海外に送り出したのは、彼に広い世界で輝いてほしかったからにほかならない。そんな春花の予想通り、静は海外で着実に実績を上げて活躍の場を広げていっている。本当に凄くて誇らしくて、涙が出そうなほど感動する。でもその一方で、自分の情けなさに胸が潰れそうになる。一生懸命やってきたピアノの先生も、左手首の捻挫から思うようなレッスンができなくなった。完治しているのに、いつまでもあの事件が頭の片隅で燻るのだ。そしてそのことで静にも店にも迷惑がかかっている。この状況に、春花の心は耐えられそうになかった。自分の存在がリセットできたらどんなにいいだろう。何もかも忘れて新しい世界に生きられたらどんなにいいだろう。そうやって考えるようになって、自分は心が病んでいるのだと気づき始めた。「それでこの先どうするの?」「ちょっとゆっくり休んで考えていこうかなって思っています」「大丈夫なの?」「大丈夫です、ちゃんと自分の将来も考えています。それでひとつお願いがあって……」葉月は春花の意思を汲み取って、今回は退職届をそのまま受け取った。ただ、上司として春花の心の闇に気づいてあげられなかったことが悔やまれ、申し訳ない気持ちになった。
「私の夢はピアノの魅力を伝えること。でももうひとつ、静が世界に羽ばたいている姿を見たいんです。わがままなことを言っているとは承知しているんですが……」時折言葉を選ぶように話す春花を見て、葉月は困ったように眉を下げた。「そうね、新規の生徒さんを頑なに入れないから、まあそんなことだろうとは思っていたわ。時間をかけて身辺整理をしていたんでしょう?」「いえ、まあ、残っている生徒さんには申し訳ないのですが」「それは仕方がないわ。こんなことを言ってはなんだけど、あなたの幸せが一番大事よ。私はこの先も辞めるつもりないし、新人も育ってきてる。レッスンのことは気にしなくていいわよ。それで、桐谷さんについていくの?」「いえ、私は遠くから見守るだけで十分かなって。寂しいですけど」てっきり静と結婚、もしくは将来を見据えて春花も海外に行くのかと思っていた葉月だったので、春花の言葉にポカンとしてしまった。理解が追い付かず目をぱちくりさせる。眉を下げながら困ったように微笑む春花。葉月はハッとなって、その肩をガシッと掴んで揺さぶった。「ちょっと待って! どういうこと? 別れたの?」「いいえ、まだ。でも静には私はいないほうがいいって思っています。彼の重荷になりたくないので」「重荷って……。それはあなた、思い詰めすぎよ」「そんなことないです。ずっと考えていたので……」
家に帰り一人になると、今日の葉月と記者の言葉が思い起こされて胸が潰れそうになった。明らかに静のスキャンダルを狙っているような質問に、春花は身震いして自分自身を抱きしめる。今日は葉月のおかげで引き下がったようだが、きっとまた来るに違いない。もしかしたら他の記者も来るかもしれない。そうなると、輝かしい静の活躍に自分のせいで泥を塗ることになるかもしれないという不安が渦巻いた。元カレである高志とトラブルになってしまったことで、こんなことになっている。この先、静にまた迷惑をかけてしまったらどうしよう。誰よりも静を応援し、誰よりも静を愛しているからこそ、春花は一人悩み落ち込んだ。そっと左手首を撫でる。もう完治しているはずなのになぜだかシクシクと痛む。静のことだけではない、こんな不安定な状態のままピアノを弾き続ける事にも違和感を覚えていた。「ニャア」「トロちゃん、どうしたらいいと思う?」猫のトロイメライは春花にすりすりと頭をこすりつける。「トロちゃんだけは私の側にいてね」頭を撫でてやると、トロイメライは春花の足元で寄り添うように丸まった。そして春花は決意した。翌日、春花は白い封筒を差し出す。「店長、あの……」「どうしたの?」「辞めさせていただきたいと思って。今回はちゃんと私の意思です」「山名さん……」「ずっと考えていたんです。ケガをしてから前みたいに弾けなくて、どうしたらいいんだろうって」春花は一呼吸置く。葉月は急かすことなく春花の言葉をじっと待った。